死ぬこと生きること [人生で求めるもの]
自ら死のうと思ったことがある。
つまり自殺。
それがどこまで本気かは個々違うにしても、世の中の大半の人は一度や二度はあるはず。
実際に実行する人もいるわけで、痛い、苦しい、つらいという思いを味合わなくてよいとすれば、
今の百倍も千倍も自殺する人が増えるでしょう。
世の中が悪い、誰それがわるい、環境が悪いといってもしょうがなくて、それは誰のせいでもなくて、あなたのせいなんですよ、という説教的な話をしても本人の心には届きません。
心が弱っているとき、自分を信じられないとき、トラウマとともにそういう時期があります。
ずっとそういう時期の人生を過ごす人もいます。
途中で人生を終わらせる人もいますし、外からの影響によって、図らずも人生が終わる人もいます。
人の人生って何なんでしょうね。
生まれて生きて死んでいく、そしてそれを繰り返す。
繰り返した記憶はないので、以前のトラウマもない代わりに教訓もない。
宗教家や精神世界の方の本を読むと生きることは結局、万能の世界からの退屈を逃れ、楽しむこと。
そういうことなんだと書いてあります。
楽しむっていうのは、広義の楽しむです。
つまり、お金もちで人にも恵まれ、人格もよく、買い物も自由でどこでも行けて、人生が楽しい、幸せっていう狭義の楽しむでなく、
戦争をしている国に生れ落ちて、言葉では言えないような苦難の時期を経て成長し、大人になっても戦争の世界で戦い命を落とす 人生、
発展途上国のスラム街で生まれ、生活のために、物乞いをするしか生きる道のない人生。
こういう経験を全部「楽しむ」という意味です。
結局、この世の体験は、映画のマトリックで表現されているように仮想現実であって、実体は存在してないわけで、いわゆるあの世の科学技術で、まるでそこに存在しているかのように感じているだけであると。
そして、こういうことを考えて、今ブログに書いている私の思考回路も、全部仮想のことで、それを読んでいるあなたも仮想の存在。
結局この世というのは全体が巨大なゲームの世界。
苦しみも、喜びも、そう思っているだけで、ほんとはどっちでもいいわけです。どっちも同じだから。
それを本当の意味で理解できたら(理解するというのは結局エゴだから、理解という言葉は超越しなくてはいけないわけですが)
それが「悟り」ということになるわけです。
ですが、そんなん無理でしょ(笑)
ヒマラヤの奥地で30年修行しないと無理でしょう。
ヘミシンクとかあっちの世界とつながる方法はいろいろあるんでしょうけども、
けどもそれは表面的なもので、本当にこの肉体を通じて理解するには、やはりこの肉体の中の意識が
強烈に求め、体現しないとたどり着かないのだと思います。
実際に目の前に手はあるし、手をつねると痛いし、腹は減るし、食べればぶくぶく太るし(笑)
苦悩の果てにたどり着く場所は、結局、自分のやりたいことを必死にやるっていう瞑想法。
それしかないんだと思います。
それが音楽なのか、絵画なのか、営業活動なのか、なんなのかわかりませんが、人に必ず与えられている表現活動があるのだと思います。
誰かの役に立つことが重要だとか言いますけども、それもどうかと思います。
誰かの役に立つことっていうのは、大事なんです。それは大事なんですが、例えば偉大な作曲家は生きてる間不遇だった人何人もいますよね。
けど後世にすごく名前残ってます。音楽残っててたくさんの人を癒してます。
感動させてます。
けど、別に誰かの役に立とうと思って作ったわけではないと思うんです。
ただその肉体を通じて、表現していただけ。
そして表現しても、現実は決して「幸せ」「楽しい」ではありませんでした。狭義の。
たぶんそういう魂は、何回も何回も生まれ変わって、音楽をずっと表現し続けているのだと思います。
スポーツ選手も、他の芸術家も、有名な人でなくても、農業が好きな人、建築が好きな人、文章を書く人、
自分の中にある傾向は、必ず何かしらあります。
なぜなら、何万回も人生を繰り返してきた傾向は体にはなくても、魂には全部記憶されているはずだから。
なんか宗教っぽくなってきたので、この話はこの辺でやめときます(笑)